松井秀喜とアンドレ・ドーソン 〜1試合で5敬遠四球を喰らった男達〜

松井秀喜の引退発表から一夜が過ぎました。

新聞、テレビそしてネットで多くの人達がブログでその思いを綴っています。

私もその一人ですが今日はその本題に入る前に松井秀喜(いつもなら「選手」とか「君」とか「さん」とか付けるのだがどうも適切な呼称が思い浮かばないので松井でいく)について少しだけ書きます。

私と松井秀喜は1つしか年齢が変わりません(私の方が上)
ゆえに当時読んでいた高校野球の雑誌で彼の存在を知っていました。
その時の内容ははっきりとは覚えていませんがこんな感じの記事でした。

「石川の星稜高校に凄い1年生がいてその1年生のためにライト後方のネットを新たに作ったにも関わらず彼の打球はその上を越えて民家の屋根を直撃、壊すようになってしまいついには学校がその損害に対し保険まで掛けることになった」

その記事を読んだ時に私は
「へえ〜凄えなあ…いち高校生野球部員、しかも1年生のために学校が保険まで掛けるのか、どんな選手なんだろ?」

翌年の夏の甲子園をテレビで見ていた私は「こいつがあの松井か…」と彼の甲子園初ホームランを見ながらうなったのを覚えています。

そして翌年の春の選抜で1試合で2本のホームランをテレビで見て
「こりゃ間違いなく今度の夏は星稜と松井の夏になるな…」
と思いました。

実際その年の夏の甲子園は星稜と松井の夏にはなりましたがそれは予想外の結果となりました。
あの有名な「5打席連続敬遠」で松井が一度もバットを振らせてもらえず星稜が敗退したのです。

「5打席連続敬遠」といえば人気野球漫画の「ドカベン」の中で明訓の強打者山田太郎が江川学院の中(あたる)投手から満塁押し出しを含む「5打席連続敬遠」されたという話は有名?ですがあくまでも漫画の世界の話しです。

そんな非現実な「作戦」を実際の甲子園で喰らったのが1992年夏の星稜高校松井秀喜でした。

さて1試合5連続敬遠について。

「5打席連続」ではありません。
そして延長戦だったという注釈が付くのですがメジャーリーグにおいて私の中で覚えている選手がいます。

それは当時シカゴ・カブスの外野手だったアンドレ・ドーソンです

ドーソンは当時カブスの右打ち強打者。

1990年の日米野球、すなわち私が初めてナマでメジャーリーグマリンスタジアムで観戦した時に来日していた選手の一人です。

主だった経歴を記しますと1975年にモントリオール・エクスポズに入団、翌76年にメジャーデビュー

77年にナショナルリーグの新人王獲得

選手生活21年で通算2774安打、438本塁打、1591打点、314盗塁

シーズンMVP,本塁打王打点王を各1回受賞

ゴールドグラブ8回受賞
オールスター8回出場

通算400本塁打300盗塁以上はメジャーリーグ史上3人のみ(ウィリー・メイズ、バリー・ボンズそしてアンドレ・ドーソン

2010年殿堂入り…

凄い選手だと思いませんか???

彼が5敬遠四球を喰らったのは1990年5月22日のシカゴ・カブスシンシナティー・レッズ戦。

この試合延長16回の末レッズが2−1でカブスに勝利したのですがドーソンは合計8回巡ってきた打席で5回の敬遠四球をされます。
ドーソンはこの試合まで本塁打13本、打点41と絶好調でどのチームも手に負えないほど絶好調でした。

ドーソンはややがに股な感じで前かがみになった姿勢で打ちます。

私も彼の打席の映像を多くは見ていないのですがいかにもメジャーのオールドスタイルな打ち方でホームランを放ちそして非常にスピード感のある選手でした。

この月、ドーソンは打率.350、本塁打9本、打点28で月間MVPを獲得します。

これだけでも想像するに凄い選手だ…)

ちなみにこの年ですがシンシナティー・レッズはワールドシリーズオークランド・アスレチックスを4連勝で破りワールドチャンピオンに輝いています。

当時メジャーは2リーグの西と東の2地区制だったのですが最終的にナ・リーグの西地区においてレッズは91勝71負で優勝、その後のプレーオフワールドシリーズ優勝。
カブスは東地区で77勝85敗で4位という成績でプレーオフ進出ならずでした。

が、

この試合は5月22日、まだシーズンの3分の1も終わっていない状況でした。

しかしレッズはこの日のドーソンを封じ込める作戦も含めて1試合1試合シーズンの白星を重ねついにはこの年のワールドチャンピオンを獲得します。

この出来事に私は非常に感銘を受けています、今でも)

だって想像できますか?

もしこの試合レッズが普通にドーソンと勝負して打たれて負けたとしたらシーズンの流れが変わっていたかもしれないのです、たった1試合の負けなのに。

しかし当時のレッズの監督であったご存じルー・ピネラはその1勝にこだわりドーソンを5敬遠で試合を勝ち取ったのです(ちなみにこの試合でピネラはドーソン以外にも2つの敬遠四球を命じその数7つは当時の1試合における敬遠四球の大リーグ記録となった…ひょっとしたら今でも)

甲子園のようにその試合だけで決まってしまう「一発勝負」ではなくまだ先のあるシーズンでの試合、まだシーズンの3分の1が終わっていない段階での試合にレッズは「禁じ手」を使ったのです。

そうまでしてほしかった勝利は
そうまでしないと勝てないアンドレ・ドーソン封じ、

そう、

アンドレ・ドーソンがいかに凄い選手だったかということを物語っているのです!

そんな出来事が松井が甲子園で騒がれる2年前にアメリカでありました。

当初ドーソンの敬遠四球はそれほど私の記憶には無かったのですが松井の「事件」によってドーソンの存在、そしてレッズの執念を確認できた出来事となりました。

敬遠四球」に私は良いイメージがありません。

やはりピッチャーが逃げずにバッターとの真剣勝負を私は見たい。

しかし歴史として振り返ると「敬遠」にはドラマを感じるし何かこう勝利には「必要悪」に近い要素のようにも感じます。

これから勝利のために敬遠策を指示する指導者の皆様、

敬遠は構わないけど後世に語り継がれるぐらいドラマチックなシナリオでやって下さいね…松井秀喜アンドレ・ドーソンのように…)